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読書日記 ヨーロッパに消えたサムライたち・太田尚樹著

ヨーロッパに消えたサムライたち・太田尚樹著・角川書店

現在スペインには、Japon(ハポン、日本)を苗字とする人たちがおり、それは支倉常長遣欧使節と関わりがあるのではないか、という疑問を追求した本。とはいえ、メインは支倉一行の苦難に満ちた渡欧の行程についての、現地資料を元にした克明な調査であって、ハポン姓の人々の話は副次的なものである。だから、タイトルと中身とは若干ずれがある。ただ、誰もが興味を持つ話題だろうし、それで関心を引くのも悪い手ではない。私もそちらの興味で買った。

[以下部分的要約]

伊達政宗は、スペインとの間に外交関係を持ち、スペイン艦隊の力を借りて、奥州を独立させる事を秘かに希望した。そして通商の必要性を表向きの理由として、外洋船を作りメキシコ、スペインに派遣したいと、幕府に建造の願いを出した。既にスペインの実力者レルモ公爵に朱印状を出していた幕府も、交易の可能性とメキシコで行われていた銀の精錬法を探るためにこの話にのり、舟手奉行に船の建造を手伝わせた。

その船バティスタ号には、スペインの太平洋艦隊の司令官で、大使として日本に来ていたビスカイノや、通訳を兼ねていたフランシスコ派の宣教師ソテロ、乗組員らスペイン人40名、ソテロが集めた日本人のキリシタンら百余名、仙台藩士12名(+低い身分のもの3名)、幕府派遣10名の、総勢180人で、1613年10月仙台をメキシコへ向けて出発した。船は500トン規模だったらしい。

3ヶ月後の1月、メキシコのアカプルコに到着後、2ヶ月かかってメキシコシティに着き、メキシコ総督に面会した。内、日本人26名はスペインに向かった。内訳は、仙台藩士11名(1名は帰国、3名は現地逃亡)、その他商人やキリシタンなど15名。6月にウルーアの港に着き、スペインに向けて出港した。一方、日本の実情を知るスペイン関係者からは、スペイン国王に向けて、日本での布教は望めないので、この使節のいう事は聞かない方が良いとの書簡が送られていた。

セビリアを流れる大河、グアダルキビル川の河口パラメダで、当地の領主メディナ・シドニア公爵(26年前スペインの無敵艦隊を率いてイギリスに大敗した提督)の歓迎を受けたあと、上流の税関のあるコリア・デル・リオで上陸した。日本を出発してからほぼ1年後の1614年10月半ばの事だった。

この後、セビリアやローマに向けて旅立ち、大歓迎を受けるのだが、日本ではキリスト教が禁止されてることが知られていたので、国交樹立や通商協定締結の望みは叶わず、一方で支倉も成果もなく帰国するわけにもいかず、吉報が届くのを待ちながら、欧州各地や帰途でのフィリピンなどでの滞在が続き、帰るのに7年もかかってしまう。

(この間の要約は省略)

ローマからスペインのコリアデルリオに1616年の5月に戻って来た日本人26名中、1名は途中で使節の一行から外され餓死(!、家康のスパイであったとか)、4人が現地に居残る事を決めた。居残る決心をした理由は、キリシタンであったこと、往路での船旅の困難さに怯えたことなどがあったらしい。残り21名中、13名が先発隊として帰国の船に乗り、8名が残った。所が実際に帰ったのは10名で、帰国者が3名減っていた。その3名が亡くなったのか、逃亡したのかは不明。よって、この時点で最大、支倉を含めて15名が残っていたことになる(この本だと14名になっているが、それだと計算が合わないような気が)。

滞在延長はソテロが怪我をしたためであったが、支倉はそこに更に1年間留まる。翌年1617年7月、支倉たちはメキシコに向けて6名で旅立つ。よって、最大9名(本書だと8名)が居残る事になる。その残ったものたちは、コリアデルリオの周辺に住み着いたらしい。またその中には仙台藩士はいなかったという。下層のもの達だけで、苗字はなかったらしい(但し、瀧野嘉兵衛という護衛隊長をやっていた幕府派遣らしい男も残ったが、ここからかなり離れた場所に住んだ。また裁判沙汰を起こしてあまり幸せな生涯は送らなかった模様.。本書にある残留人数は瀧野を省いているのだろう)。

メキシコに着いた後、1618年4月フィリピンに向けて出港、6月に到着後も、スペイン国王の書状を待って、2年間滞在、1620年9月、日本に帰国した。

ところが日本は鎖国しており、宣教師が殺されたりしていtて(4年後にソテロも火焙りの刑)、支倉自身洗礼を受けていたため、伊達政宗は表に出さぬよう蟄居を命ずるしかなく、支倉は歴史の闇に消えてしまう(その存在が再確認されるのは、なんと明治初めの岩倉具視などの遣欧使節が欧州滞在時)。帰国2年後に死去。また帰国後、子供にも洗礼を受けさせたので、政宗死後、長男などが処刑される結果になった。酷い結果ではある。


ただ、ここでの問題は、ハポン姓についてで、そのコリアデルリオの現在での状況になる。
そこは、
1.水田が広がっていて、稲作が行われており、その稲作の起源については不明だという。
2.それらの水田は、日本のように細い畦道で仕切られている。
3.支倉達が帰国したあとの数十年後に、ハポンを苗字とする人たちが現れた。
4.それらハポン姓の人たち600名余が、コリアデルリオの周辺に住んでいる。
  (スペイン全土では800名ほどいる。ちなみにスペインでは苗字を父方、母方両方から取る。
   この数値は、どちらかがハポン姓の人。両方をハポンとする人も10名いるらしい)
5.彼らの職業は、稲作が中心。
6.ハポンには、日本という以外の意味はない。
7.ハポン姓の人は、先祖がサムライであると言い伝えられてきたという。
8.スペインでは、本来の性以外に出身国名を性とする場合がある。画家のグレコ(ギリシャ出身)など。
  また、この地に居残った人たちはサムライ階級ではなく、元々、姓は持ってなかった模様。
9.現在のハポン姓の人たちは比較的高学歴らしい。
10.ハポン姓の人は高確率で、幼児の頃、蒙古斑が出る。また他のスペイン人には出ない。
11.ハポン姓の人の先祖は5家族に集約されるらしい。それは居残った日本人の数に整合している。
12.ハポン姓の人は、朝が早く、6時には働き出すという。他のスペイン人より2時間早いらしい。

また傍証として、アルゼンチンに残っている記録で、日本人奴隷として、フランシスコ・ハポンという名前が記録されてるという。

[要約終わり]

テレビ番組より




1分30秒辺りに出てくるおじさんは、日本人風(笑)

[以下私見]

全てが状況証拠なので、確定は出来ない模様。ただ、瀧野と餓死した通訳(モンターニョ、日本人)が居残ったのはスペイン側の資料で確定らしい。後者のスペインでの名前は、フランシスコ・マルティネス・ハポン。

何か、武具などの遺品とか、書き付けなどが出てくれば良いのだろうが、元々下層民だったので、刀などは持っていなかったろうし、文字が書けたかどうかも分からない。江戸初期だと寺子屋も発達していないし無理かもしれない。また上記二人以外に、日本人が残ってコレアデルリオ周辺に住んだという確かな資料もないらしい。ただ、その可能性は相当に高いだろう。

個人的に知りたいと思ったのは、現在の米の調理法。何か炊き方とか、おかずの作り方に日本風のものはないのだろうか。味噌汁風のとか。食生活以外の習慣でもいいが。まあ、日本人の現在の食生活その他についても、江戸初期とはかけ離れてはいるだろうが。

外国に残るという決断をした人の気持ちは、今となっては推し量るのも難しいが、当時国内ではキリシタン弾圧が酷かった事、二つの大洋を渡るという事は当時の航海としては大変な難行であったこと、サムライ階級でない人にとっては将来の生活に期待が持てなかった事など、状況の違いがあるという事なのだろう。

以上

(6/15)
皇太子様が、コレアデルリオをご訪問のニュース

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