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『太平洋戦争における人種問題』クリストファー・ソーン著・・・(3)

前のページからの続き。
草思社、1991年発行、市川洋一訳。原題は、"Racial aspects of the Far Eastern War of 1941-1945"by Christopher Thorn,1982。

☆ アジアと日本とその変容

p64・・・1945年の夏、東インドであるフランス人が次のように書いているのも、・・・・・「日本人は一般には敗れたと言われているが、アジアのこの一角では『戦争に勝った』のだ」。

p65・・・ネルーは、・・・・・1946年には、彼らの戦時中の行動を「インド解放運動に対する熱烈な願い」から出た「勇敢な行動」だと称賛しました。

p65・・・ある日本の論者が言うように、なさねばならないことは、西欧化に抵抗することではなく、「アジアのヨーロッパ化をアジア化する」ことだというのでした。

まあ日本の戦後については色々と言われた。日本は決して敗けたわけではないとか。これはどの文脈で言われてたの忘れたが、フランス語系だったかなあ。「アジアのヨーロッパ化をアジア化する」というのは、中々いい思潮だったと思うが。この本を読んでて初めて知った。

しかしながら、アジアの各国の独立的なひとびとも、日本から離反していった。

p68・・・そして、東インドの経済は日本の利益の為に荒廃させられました。

p69・・・マレーのあるインドの指導者は後に次のように証言しています。「日本軍は、われわれにはとても理解できない言葉を喋っている動物のようだった。」

p69・・・オランダ領東インドの場合は、・・・シャフリルの次の言葉は、・・・「・・・この日本人ような野蛮人に今までの植民地勢力の代わりが出来るのだとしたら、そのような権力がなぜ必要だったのか? 代わりにどうして政治を自分たちの手に握らなかったのか?・・・」

p71・・・「アジア」は「アングロサクソン」や「西欧」そのものに対して自己を主張しようとしている、という考えてますます声高に叫ばれるようになりました。

p72・・・中国は1942年3月、「ポンペイクロニクル」から「アジアの未来への希望を担うもの」と・・・ネルーも・・・タゴールに対しては・・・蒋介石もまたネルーあての書簡のなかで、・・・最も西欧的な宋子文はイエール大学で、「アジア」は、「市場や利権の対象としてしか見られないことには飽き飽きしている」と聴衆に訴えました。

P74・・・二つの世界が作られるつつあるのだ。一つは白人の帝国主義的「ヨーロッパ」の世界ーーー底にはアメリカが含まれる。もう一つはアジアとアフリカの有色人種のからなる「従属国」の世界である。

***・・・なんだか、かつての意気軒昂な、しかし時代錯誤的な時代の息吹に触れていやな気がするのだが、要するに、第3世界の養護なのだろうか。あれは破綻したのではないのか。宋子文が出てきた途端に読む気が失せてしまった。「飽き飽きしている」とか、まあよく言うものだ。台湾だけは、アジアのヨーロッパ化をアジアしているのに成功したかもしれないが、それは、死後の話だろう。シンガポールは違うみたいだし。

※ 宋子文は、いわゆる宋3姉妹の兄弟で、宋家を代表してたのだが、戦後は台湾には戻ってないらしい。

☆ 太平洋戦争のもたらしたもの

p78・・・皮膚の色や人種を異にするものに対する関係、態度、期待は、太平洋戦争の間に、そして部分的にはその結果として、かなりの程度変化していたのでした。

p78・・・マージャリー・バーハム博士は1942年3月に次ように述べています。「日本の攻撃によって人種的な関係に革命的な変化がもたらされてた」

p79・・・しかしながら単に反ユダヤ主義だけではなく、白人対有色人種の関係いより大きく注意と情熱が傾けられるようになったのは、極東での戦争を機としてでした。

p80・・・バーハム博士などの見られる当時の人たちの判断のきわ立っている点は、過度の単純化ではなくむしろ、来るべき大きな変化をはっきりと予期し予想してたことであります。

(以上で終わり)

人種的な関係は、実態を伴った変化でしかなかった。一部の人たちはそれを予感したとしても、現実にはそうとはならなかった。ベトナムではその後10年もかけて独立戦争が続く。インドネシアでは5年。もし日本が何もしなかったら、その後も同じだっただろう。プリンズオブウエールズを撃沈したように、具体的に目の前のものを沈めて、初めて起きた事なのだ。

まあこうやって時勢について起きた変化を書いては来たが、やはり実際に起きたことだけが、時代を帰ることが出来る。それは絶対である。どんな変化が起きてもそれjは直接には時代を動かさない。なにか事柄が起きて後動くのだ。

本文は80ページなんだが、このあと、資料の整理だけで30pも続く。大変なものだ。

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『太平洋戦争における人種問題』クリストファー・ソーン著・・・(2)

前のページからの続き
草思社、1991年発行、市川洋一訳。原題は、"Racial aspects of the Far Eastern War of 1941-1945"by Christopher Thorn,1982。

☆ 助長されていった人種的偏見(続き)

p33・・・たとえばローズヴェルトにしても、日本人の「邪悪さ」の原因は頭蓋骨の形が白色人種のものよりも発達が遅れているせいだとまじめに彼が信じていたことを示すはっきりした証拠があります。彼のそうした考えは、ほかならぬスミソニアン博物館の自然人類学主事から吹き込まれたものでした。

p34・・・アメリカやカナダの宣伝文書、映画、漫画において、ドイツやイタリアに関しては主たる攻撃対象はヒトラーやムソリーニ個人でしたが、日本に関しては、天皇や首相だけではなく、日本国民そのものが悪の化身として攻撃の対象になっていました。

p36・・・アメリカ海軍のウイリアム・ハルゼー提督は立ち向かってくる「下等な猿ども」をもっと殺して、「猿肉」をたくさん作れと部下をいつも督励していました。戦況が連合国側に有利に展開してくると、ハルゼー提督はさらに生き残った日本人は去勢してしまうべきだと主張しました。

p37・・・ オーストラリアやニュージーランドの新聞も、日本人のように残虐行為を犯す人種は決して信用できないと警告しました。民主主義国家が直面している任務は、「野蛮人」の民族性を変えること、「この人種の2000年の遅れを取り戻すこと」だと、『シドニーデイリーテレグラフ』は主張しました。

p38・・・(一方日本では)大東亜共栄圏の建設は、「肇国の精神を忘れた機械的な民族平等観に基づくものであっては断じてならない」というのでした。ライシャワー教授によると、自分たちは独自の特質を有しているのだという日本人の信念の「本質は、他国民とはあたかも違った種なのだという、深く根ざした人種差別的概念」でした。
(註・・・肇国=ちょうこく=国を建設すること、神武の建国をさしていると思われる)

※※※ まあ、どっちもどっちとは言え、新大陸で原住民を遊びで殺していた連中が、他民族をよくもこんなに悪し様に言えるもんだと感心する(笑)。言うのはいいとして、こういう場合の彼らの脳j内はどうなっていたのか不思議な気がするんだが。しかも、黒人、インディアン、アボリジニに対する差別は、この後の60年代、70年代まで続いている。カナダでのイヌイット差別は今でもあるらしく、数千人規模で殺されてる。どんな精神構造なのだろうか。まあ、人間だとは思ってなかったのかなあ、まじで。


☆ 「有色人種」対「白色人種」

p41・・・1942年にアメリカに滞在し、人種問題を研究していたガンナーミュルダールは次のように述べています。「この戦争では一方の側に『有色人種』の国、日本がある。そしてこの国はまず自分の土俵の上で白人のアングロサクソンをたたいた・・・うぶなニグロでさえも世界の出来事の中に皮膚の色の図式をうすうす感じ始めている」。

p42・・・寝台車ボーイ組合の戦闘的な組織者、A・フィリップ・ランドルフは主張しています。「この戦争は、自由のための戦いではない。『白人支配』と・・・・有色人種の搾取を続けていくための戦いである」

p43・・・オランダの首相P.S.ヘルブランディが、日本の勝利によって白人の威信が脅かされていると声明したとき、『ボンベイ・クロニクル』はいち早くそれをとり上げ、次のように論じています。「日本を罰するための戦いが中国人、インド人、フィリピン人、東インドの人びとの助力のもとに行われているのは、日本に対して・・・・「白人の威信」を擁護するためであり、日本の主たる罪とは明らかに侵略ではなくして、有色人種であるということである。」

p45・・・ローズヴェルトのインドでの代理人ウイリアム・フィリップスは1943年に次のように書いてます。「有色人種としての意識が・・・現在ますます前面に出てきたし、今後も大きなっていくにちがいない。西洋人に対する強い嫌悪感や不信感など多くの共通点を持つ東洋民族の一大ブロックが、われわれの前にたちはだかることになるだろう」。

p46・・・オーストラリアと同様、オランダもまた中国での治外法権の廃止については、なかなか同意しませんでした。その原因は本質的には人種的な問題でした。

※※※ 大戦後、東南アジアでは独立が相次ぐわけだが、既に大戦中にそういった意識が醸成されていたのが分かる。ボンベイクロニクルという新聞は、日本に対しては批判的なスタンスだったが、それでさえ、この戦いが人種間の戦いであるという認識を示している。こういった認識は白人の中にさえ広がっていっていたようだ。勿論その意識を高めたのは日本である。日本が無ければずっと植民地だっただろう。アフリカのように。国内サヨクは、そういった面を隠蔽したいのか、日本は「アジア諸国」を侵略したと散々言ってきた。そんなものはほとんどないのだが。ただ、時々思うのだが、マジで彼らは歴史を知らないのかもしれない(笑)。ほんとにマジで、「アジア諸国」を侵略したと思ってる可能性がある。最近のサヨクのレベルは下がってるし。植民地だったって知らないのかも。村山とかも言っていたが、騙してるようにも見えなかった。
 しかし、中国での治外法権ってこの時期まで続いていたとは驚いた。それにしては、中国は日本だけを批難の対象にしてるが(笑)。彼らは白人には頭が上がらないんだろう。東南アジアのプランテーションで白人の下で現地人を使っていたのは中国人だし。表面では強気でも、深層ではコンプレックスを持っているように見える。


☆ 新しい国際秩序と差別意識

この章では、戦後のアジアの将来への展望として、欧米側に各種の見方があったこと、それは国によって違い、各国内においても混乱があった事が書かれている。また、ドイツとの戦いがあったため、アジアについては明確に意識された形にならなかった事など、かなり複雑な内容となっている。

オランダでは
p50・・・「民族主義、民主主義、共産主義の風潮が今や世界を形づくる力となってきた。それらは東インドにも根を下ろした・・・・東インドの出来事は今や世界を巻き込んでいる」と、戦争が終わったとき、オランダの首相は、日本の捕虜から
解放されたばかりの保守的な東インド総督に書きおくりました。

イギリスでは
p51・・・たとえばダフ・クーパーは1941年に閣僚たちに次のように警告しています。「われわれが今、相対しているのは、ヨーロッパ人の優位やアジアにおけるその特権を認めようとしない、勤勉で聡明で勇敢な、膨大のアジアの人々である」

p52・・・またイギリスやオランダの政府関係者は、日本のスローガン「アジア人のためのアジア」には強力なアピールの力があるとひそかに認めていました、

しかし、一方でチャーチルをはじめとして白人支配の秩序に変化が起こることを認めなかった人も多くいた。あるいはアジア情勢の変化を認めながらも、白人の特別な地位を放棄したくない、という人が広く見られた。

p56・・・オランダ共産党の地下機関紙『ディ・ヴァールハイト』「他民族を抑圧する民族は自由ではない」と主張してはいましたが、「オランダとインドネシアは分離してはならない」とも強調していました。

フランスにおいては幾重にも分裂した思潮があった。
p57・・・日本軍のインドシナ進出を目にした現地の多くのフランス紙は、フランスとアジアの協力を説くとともに、インドシナの人々を包含し、さらには「西欧と極東の二つの文明の調和ある総合」を生み出す共同関係について論じました。しかし、フランスにおいても、またインドシナにおいても、ヴィシー系のすべての新聞が強調した点は、インドシナのシ将来はフランスに対する愛国心の復活と純化とその結集の上に築き上げられなければならないということでした。

つまり人種差別的感覚はないとしても、やはりフランス中心であることは当然の前提であった。そしてそれに対する日本の脅威が認識されていた。

p58・・・『アクション・フランセーズ』の指導的な記者の一人は次のように述べています。「アジアの、とくに日本の、その固有な特質への回帰、それは西洋文明の装いの影に隠れた粗暴な一面である。だがそれは、さまざまな影響を持つ重苦しい現象である」。

反ヴィシーのレジスタンス側は人種差別に反対はしていても、それは主にナチズムや反ユダヤ主義に関わるもので、アジアに関しては温度差のあるものだった。

p59・・・1944年11月の社会党大会では、植民地の人々の真の解放は、民主的社会主義的フランスとのより緊密な結合の中にあると述べられています。

つまりヴィシー政府の主張と同様なものであった。

p60・・・ド・ゴール派と同様、共産主義者たちも、1940年に大きく揺るがされたフランスの栄光は完全に回復されなければない、そのためには、海外領土を奪回しなければならないと強硬に主張。していました。

イギリスにおいては、植民地解放論は強くはあったが、戦後の植民地政策はイギリス独自の方針で進めていくという堅い気持ちがあり、またフランスやオランダの植民地は宗主権を回復すべきだと考えられていた。

p61・・・ナチス・ドイツとの存亡をかけた戦いの中では、従属民たちの将来といった問題はごくわずかな位置しか占められませんでした。どちらかといえば、本来のヨーロッパ中心主義がいっそう強まっていったのでした。

アメリカでは、東南アジア地域の不安定さや共産主義への警戒から、欧州の支持が必要だと認識されていった。また、アメリカ的価値の普遍性への確信が見られた。一部のアメリカ人にみられた延安の共産主義者への共感も、その中にアメリカ的な文化、政治文化の考え方を感じたからだった。人種的偏見に激しく反対したパール・バックでさえも、

p63・・・アメリカは、「アジアに対する思想的指導権」を保持しなければならない、「アメリカ的生活様式」をアジアに広めなければならないと、公然と主張していたのであります。

マッカーサーも
p63・・・彼はジョージ・ケナンに次のように書きおくっています。日本の国民は「指導と示唆を渇望している。民主主義とキリスト教を彼らに与えるのが私の目的である」

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『太平洋戦争における人種問題』クリストファー・ソーン著・・・(1)

草思社、1991年発行、市川洋一訳。原題は、"Racial aspects of the Far Eastern War of 1941-1945"by Christopher Thorn,1982。
1980年に行われた講演を書籍化したもの。

この人は別に、大著の『米英にとっての太平洋戦争』上下巻や、『太平洋戦争とは何だったのか』といった本があるが、なかなか読む暇がない。この『~人種問題』はそれらの中から、人種的側面を取り上げて講演したのをまとめた小冊子。いくらかをHPの方の「映画「永遠の0」で描かれた特攻」で引用した。

太平洋戦争というのは複雑な様相を持っている。普通に考えれば、国家間の利害をめぐる戦争である。しかし歴史的にはアジアにおける植民地支配を終わらせた戦いでもあった。当時白人が支配した世界に公然と反抗を行った人種間の戦いでもあった。あるいは、戦後サヨクに言わせれば、理性と良識によって保たれていた平和な世界に日本が殴り込みをかけ、「アシア諸国」を侵略した戦いであったらしい(笑)。「アジア諸国」とか。19世紀にアジアにあった幾つもの王国を侵略して崩壊させ支配したのは欧米なんだが。白人の植民地支配の事はスルーするのがこの連中の思考の流儀らしい。

この人の本は、とにかく引用が多い。当時の雑誌、新聞、書籍を非常に幅広く調べている。私にとっては、それが貴重だと思える。観念的なことは後付でどうにでも言える。しかし、実際に当時語られた事、信じられた事、行われた事こそが決定的に重要である。それだけが信頼に値すると思う。

うまくまとめるのが難しい本でもあると思うので、引用中心で書いていく。各セクションごとにまとめる。カギカッコの部分は当時のものからの引用。 → このページの続き


☆ 「人種」という概念

P6 ・・・著名な軍人であり歴史家でもある人が、私に「今日的な意味で言えば、1939年から43年の間はたいていの人が人種差別主義者だった・・・・・西欧文明の完全な優位性が依然、信じられていた」と語っています。

p8 また、別のインドネシアの民族主義運動の指導者は次のように書いてます。「一般のインドネシア人にとっては、この戦争はニ大国間の世界戦争ではなかった。それままさに、オランダの植民地支配者がインドネシアにもちこんだ悪、傲慢、抑圧がついに神によって罰せられる戦いであった」。

p11 日本の戦いは全アシアのための「聖戦」であると日本が宣言したとき、それは前インド国民会議派議長のスパス・チャンドラ・ボースにとっては日本の誠実さの証明でしたが、同じインドの民族主義的新聞『ボンベイ・クロニクル』にとっては「吐き気を催すような偽善」だったのです。・・・一方インドシナのホー・チ・ミンにとっては白人のフランス人も黄色人種の日本人も同じ敵でした。

※※※ このセクションで書かれていることは、この議論の元になる「人種」という概念の曖昧さ、多様さなど。決して人類学的な分類ではないということ。また、場合によって、相手によって使い分けられていたこと。例えば、ナチの反ユダヤ人主義には人種差別として強く反対していたのに、植民地に対しては人種差別的な見解を抱いていた人がいたことなど。フランスではソ連の指導者を、「モンゴルの指導者」といって非難していたり。人種が直接的な戦争の原因では無かった事。日本人自身が自分達がアジアに属するのかどうかという点について矛盾した考えがあった事。


☆ 揺らぐ西欧の優位

p14 日露戦争の日本の勝利によって、ある中国の新聞は、今やわれわれは「黄色人種の再生を信じる」事ができると書きました。インドではパンディ博士が書いてるように日本の勝利は「青年たちの心を無敵ヨーロッパの呪縛から解き放ち」ました。

p18 1938年、アンソニー・イーデンは日本の非妥協的な態度に直面して、「極東における白色人種の権威を断固として主張」することが重要であると強調しました。

p19 アメリカ陸軍の高級参謀の一人は、1930年の極東問題の中心は、「その大多数は、感情的jにも、宣伝によっても、西欧支配を振り捨てるようにたえずかきたてられている、発達の遅れた黄色人種や褐色人種」に対する白人の支配を維持することにあると規定しています。

p21 イギリスの極東軍司令官は1940年に香港島を訪れた後、次のように書いています。「国境の有刺鉄線越しのすぐ近くに汚れた灰色の制服を着た人間らしい生きものを見て、あれが日本の兵隊だと言われたが・・・彼らが優秀な戦闘部隊になるとは信じられない」。

※※※ ここでは、アジアの側からの反西欧の動きとそれへの西欧側の対応が取り上げられている。アジアにおける民族主義的感情には各種のものがあって、中には他のアジア人への敵意を伴うものがあったり、イデオロギー的なものもあった。しかし、日露戦争から第一次大戦での欧州の疲弊、日本の国際連盟脱退などによって、欧米に対するアジア全体の反乱という側面が強まっていった。日本国内でも、日本はアジアの盟主として欧米に立ち向かおうという主張が出てきていて、アジアにおいても小数ではあったが、それに歓呼の声を送る人がいた。アウン・サン、チャンドラ・ボース、スカルノ。そして欧米の側にもいずれ東西の対決になるとする見方が広がっていった。


☆ 日本の「勝利」の衝撃

p23 (多くの日本人にとっては)とくに中国との戦争については、それが同じアジア人を相手とする戦争だけに、その意義づけについてはいろいろと難しい面がありました。しかし今や、蒋介石が真の敵である西欧列強と公然と手を結んだ以上、西欧の傀儡として彼を排斥することができるようになったので、その点での困難は除かれました。

p25 たとえばマレーの行政官だったあるインド人は、後にこう述べています。「私の理性は、アングロサクソンに対する日本の戦いに味方することにはまったく反対だったのだが、私の心情は本能的にそれに共感を寄せていた」。

p28 しかし西側の主な反応は不安でした。真珠湾の報道が伝わるにしたがって、「国中がパニックに陥ろうとしている」と、著名なワシントンの記者レイモンド・クラッパーは書いています。

p29 ・・・シンガポールが陥落したとき、ビシー・フランスの新聞までもが、アングロサクソンの失敗にはほくそ笑みながらも、「未発達民族」の目に映じた「白い支配者」の声望の失墜の影響と、東洋から西欧勢力を排除するという日本の目的について、不安げに論じています。

p30 彼の(ヒトラーの)目から見れば、日本人は「文化水準ではつねにわれわれに劣って」いてドイツ国民とは「似たところはまったくない」国民でした。そのうえ、彼はひそかに日本の緒戦の劇的な勝利は「歴史の転換点」であり、それが「白色人種が敗れ・・・全大陸が失われる」ような結果をもたらすことになりはしないかと恐れていました。

※※※ 人種的原因で始まったわけではない戦争ではあったが、日本の緒戦の勝利によって、「白人対有色人種」、「西欧対アジア」という側面が意識されていった。アジア人にとっては、イギリス兵の無責任な逃亡や大量に捕虜になったことに対する幻滅、驚きが広がり、大英帝国の威信が消えていった。アジアの独立運動家にとっては、独立への希望を与えるものであった。西欧においては、不安が広がり、枢軸国のドイツや、ビシー・フランスにおいてもそれは同様であった。



☆ 助長されていった人種的偏見

p32 1942年4月のドゥーリトル飛行隊の東京空襲の後、日本の漫画ではアメリカの飛行士は邪悪な悪魔に描かれていましたし、アメリカの漫画ではアメリカの飛行士を処刑する日本兵は猿として描かれていました。

p35 イギリスにおいても、ドイツ人の方は、かつては文明国民だった、道を誤ったのはナチスのせいだといわれていたのに対し、日本人に対しては、最近のある研究によると、「まるで新しく発見された新種の動物にでも使うような言葉」が用いられていたということです。

※※※ 実はこれは戦後もずっとそうだった。前にも書いたが(→ページ)、石原慎太郎が予算委で質問した時にこのことに触れている。

>・村松剛がアメリカに行った時、日本とドイツの終戦記念日のニューヨークタイムズの社説をもって帰り、それを読んだが対照的だったという話。「ドイツについては、この民族は非常に優秀だったがナチスによって道を間違えた、早く復興するために協力しよう、と書いていた。日本については、怪物ナマズから牙を抜いている図を書いて、この醜く危険な化け物は倒れはしたが、まだ生きている。我々は世界の為にこの化け物を解体しなくてはいけない」と書いていた。

これは多分60年代のことだろうと思うが、NYタイムズでも当時平気で人種的な偏見を書いていたのだ。
(追記8/30) いくらなんでも60年代でこの記事ないと思うから、戦勝直後辺りの記事をあとから見て書いたのかもしれない。


まだ3分の1ほど。











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『丸刈りにされた女たち』(藤森晶子著)・・・「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る


戦後のフランスでロバート・キャパが撮った有名な写真がある。
PA-14275908.jpg
占領下でドイツ兵と親密になった女性が、戦後復讐心に燃えるフランス人によって、丸刈りにされ見せしめに通りを歩かされてる情景である。前を歩いている老人は父親だろう。これはシャルトルという都市で行われたものだが、フランス全土で何万もの女性がこうされたらしい。自分にとってこれは今まで見た中で最もショッキングな写真だった。
以前、別のページでも取り上げてる。そこでパリと書いたが、実はその前の街だったらしい。

ダウンロード (7)この本はこういった女性の何人かを突き止め、戦後の生活について書いたものである。まだ全然読んでないが、この女性の名前は、シモーヌ・トゥゾーと言うらしい。当時23歳、子供は生後3ヶ月。その後、シモーヌの家族は対ドイツ協力、密告の罪で逮捕され裁判にかけられた。家族の中でシモーヌだけ、公民権停止の刑を受ける。そして裁判後一家で他の町に引っ越した。子供の実父は東部戦線で戦死、シモーヌは再婚して子供二人を作るが離婚し、45歳で死亡した。アルコール依存症に掛かっていたとか。抱いてる赤ん坊は、今も生存しているが、取材は拒否しているらしい。すでに70歳を超えてる計算になる。

この写真、あるいはこういう事態に対して、どう考えればいいのか、整理が付かない。これが特殊例ではない以上、白人の文化に内包サれているものなのだろう。日本においてはこういった状況は起きていない。戦後、米軍駐留の時代に「パンパン」と呼ばれた女性達がいた。それなりに嫌悪されただろうけど、晒し者にはされていない。身の上を隠して生きていけだだろう。あるいは正式に妻になって米国に行ったり。

欧州のナチ嫌いは徹底している。それはつい最近の某アイドルグループの事件にも現れた(笑)。しかし、それにも疑念がある。ほんとにそんなにナチって悪かったのかね? 共産主義者による被害の方が圧倒的に多いのだが。2ケタばかり違う。ま、被害を受けたのは主にスラブ人、アジア人だから、西欧人にとっちゃどうでもいいんだろうけど。それは分かるが(笑)、しかし、国内サヨクまで一緒になってヒトラーだナチだって喚くのはどうかしてるだろう。アジア人はヒトラーの被害は殆ど受けていない。本当の敵は共産国だ(笑)。白人目線、白人様信仰のサヨクらしい面ではあるが。まあ、それは別として、欧米は自分らの悪行を全部ナチに押し付けてるのではないのかね? ユダヤ人差別は全欧州において行われていたのだ。それが悪いとは言わない。ユダヤ人側にもなんらかの問題があっただろうし。しかし全部ナチに押し付けて知らんぷりをしているのではないのかね? それが裏にあるから、ナチ攻撃が激しくなっているのではないのかね? ナチへの評価見直しなどは、それ自体が犯罪だとか。何が言論表現の自由なんだか。

まだろくに読んでもいないが、ポイントを上げてみると、

1.フランスが敗れた事
2.勝者がナチだったこと
3.勝者側と敗者側とで、個人的な関係が出来たこと
4.戦後、そういった関係者が晒し者になったこと
5.これを撮ったキャパの視点、意識


とかだろうか。
1や3はごくありふれたことである。問題は多分、2と4だろう。ここで何かねじれてくる。

5について先に書けば、これは素晴らしい視点であるだろう。状況がつかめるベストな位置取りであり素晴らしい構図だ。しかも対象は移動しているのだ。うまく収めたものだ。この時点ではズームレンズは実用化されてないから、動いて構図を決めないといけない。上手く出来たものだ。周囲の群衆の表情が多数入っている。誰もがあざ笑ってる。子供たちはよく飲み込めない様子だが。こういった写真によって、他国、他文化ってものが理解出来る。といってもこれの理解は難しいが(笑)。凱旋パレードの写真などより遥かにマシだ。またもう一つはこの時のキャパの意識である。決して群衆と同調しているのではないだろう。ハンガリー出身で、フランス国民でもないし。この写真での本当の被写体は、この女性というよりは、あざ笑う群衆であっただろう。

日本人は人間関係への依存の割合が非常に大きい、だから、これほどまでに人をあざ笑う事はできない。どこかで押さえてしまう。それが彼らの文化との違いではないだろうか。ここまでやられたら日本人だと耐えられない。だから、そこまではしない。それが理解を妨げている理由ではないだろうか。おそらくはこの女性も傷付いただろうけど、日本人が想像してるのとは違うのかもしれない。こんな状況でも赤ん坊への愛情や、父親の威厳の保持は変らない。神との結びつきが最上位に来る社会だからかもしれないが。

映像も色々あるんだな、→ ページ






続く

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リンドバーグ第二次大戦日記 ・・・「鬼畜米英」は本当だった

連合軍による日本兵捕虜への虐待、虐殺行為が描かれてることで、日本で有名な本。あの英雄、リンドバーグが批判を恐れずに書いたものだ。この人は信念の強い聡明な人だったらしい。ただの冒険家ではなかったようだ。
つい最近復刊された。

最近は本はネット注文ばかりで、本屋に入ったりすることなどほとんどなかったのだが、たまたま時間が空いて行き場が無かったので(笑)、本屋に入ったら見つけた。しかし、高いなあ(笑)。普通の厚さの文庫だけど、1冊1200円ほど。

ただし、この本はかつて出版された際に抄訳だと聞いていたので、じゃあ、自分で必要な部分を訳そうかと思って、かなり前に原書を買っていた。しかし、これが分厚くて分量多くて、どこに何が書いてあるかだけでも探すのは大変。そのままほっておいたら、その抄訳の復刊を見つけて買ってしまった。

原著は、The Wartime Journals of Charles A. Lindbergh 、1970年刊
それを抄訳したものが、新潮社から1973年に『リンドバーグ第二次大戦日記』(新庄哲夫 訳)として出たらしい。
さらに、2002年に学研M文庫で『孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記(上下)』として再販された。
それが今月角川ソフィア文庫から『リンドバーグ第二次大戦日記(上下)』として出された。
上巻には主に欧州戦線、下巻には太平洋戦線が記述されている。今回は下巻のみ購入。

以下抜粋
p223
1944年 六月二一日 水曜日
日本軍兵士殺害に関する将軍の話-数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく-帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。
 軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ日本兵を殺すチャンスだとその捕虜はその軍曹の前に引き立てられた。
「しかし、俺はこいつを殺せないよ! やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」
「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
 偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。

原書では、p853
General's account of killing a Japanese soldier~

「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」は、"Hell,this is war.We'll show you how to kill the son of a bitch"
「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」は、"slit from ear to ear"


p225
1944年 六月二六日 月曜日
談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。 残りの連中にはちょっとした出来事があった。 もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。 


捕虜にしたら飛行場で撃ち殺していたのだ。世話をするのも面倒だろうし。日本側もそういう事はしたかもしれないが、バターン死の行進や、食事が粗末だったという事で処刑されているから、一応は捕虜にはしてる。

原書では、p856(途中24日のがあるが、訳されていない)
>*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。 残りの連中にはちょっとした出来事があった。 
のところは、
We had a couple of thousand down at --------,but only a hundred or two were turned in.They had an accident with the rest.

-------の所は多分部隊名か基地名が書いてあったのでは。出版に当たって削られたか。





続く


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野坂昭如さん逝去、古田武彦さんも

野坂さんは、9日、古田さんは、ちょっと前になるが10月14日。
どちらも印象的な人だった。去年はジャックブルースやジョニーウインターが亡くなってるし、寂しいことだ。

この二人講演やちょっとした会合で拝見してる。野坂さんは写真も撮ったりした。どこかにあると思う。
野坂さんは、一般的な評価はどうだか知らないが、『骨餓身峠死人葛』。これは非常に印象に残っている。流れるような、言葉が溢れ出てくるような文体。これが日本の文章の本来の形なのかもしれない。確かお会いした時に、この本の名前をあげたら、「これを書いた当時は自分も小説家として行けるかもしれないと思ってた」みたいな事を仰ってたと思う。ほかも読んだかもしれないがあまり記憶には残っていない。あとは、例の朝まで生テレビをよくみたものだった。

古田さんは、講演などを何回か聞いた。古代史関連の本はほとんど購入して読んでる。「東日流外三郡誌」関連でちょっとおかしくなったが、基本的な史観は正しいと思ってる。一番最近の本になるのは、『壬申大乱』かな。これは人麿の長歌の解析が中心なので、かなり難解で厳しい。しかし、大作ではあるし、理解したいとは思うが。『失われた九州王朝』、『盗まれた神話』とならぶ重要な本かもしれない。

合掌

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ジャンル : 本・雑誌

読書日記 ヨーロッパに消えたサムライたち・太田尚樹著

ヨーロッパに消えたサムライたち・太田尚樹著・角川書店

現在スペインには、Japon(ハポン、日本)を苗字とする人たちがおり、それは支倉常長遣欧使節と関わりがあるのではないか、という疑問を追求した本。とはいえ、メインは支倉一行の苦難に満ちた渡欧の行程についての、現地資料を元にした克明な調査であって、ハポン姓の人々の話は副次的なものである。だから、タイトルと中身とは若干ずれがある。ただ、誰もが興味を持つ話題だろうし、それで関心を引くのも悪い手ではない。私もそちらの興味で買った。

[以下部分的要約]

伊達政宗は、スペインとの間に外交関係を持ち、スペイン艦隊の力を借りて、奥州を独立させる事を秘かに希望した。そして通商の必要性を表向きの理由として、外洋船を作りメキシコ、スペインに派遣したいと、幕府に建造の願いを出した。既にスペインの実力者レルモ公爵に朱印状を出していた幕府も、交易の可能性とメキシコで行われていた銀の精錬法を探るためにこの話にのり、舟手奉行に船の建造を手伝わせた。

その船バティスタ号には、スペインの太平洋艦隊の司令官で、大使として日本に来ていたビスカイノや、通訳を兼ねていたフランシスコ派の宣教師ソテロ、乗組員らスペイン人40名、ソテロが集めた日本人のキリシタンら百余名、仙台藩士12名(+低い身分のもの3名)、幕府派遣10名の、総勢180人で、1613年10月仙台をメキシコへ向けて出発した。船は500トン規模だったらしい。

3ヶ月後の1月、メキシコのアカプルコに到着後、2ヶ月かかってメキシコシティに着き、メキシコ総督に面会した。内、日本人26名はスペインに向かった。内訳は、仙台藩士11名(1名は帰国、3名は現地逃亡)、その他商人やキリシタンなど15名。6月にウルーアの港に着き、スペインに向けて出港した。一方、日本の実情を知るスペイン関係者からは、スペイン国王に向けて、日本での布教は望めないので、この使節のいう事は聞かない方が良いとの書簡が送られていた。

セビリアを流れる大河、グアダルキビル川の河口パラメダで、当地の領主メディナ・シドニア公爵(26年前スペインの無敵艦隊を率いてイギリスに大敗した提督)の歓迎を受けたあと、上流の税関のあるコリア・デル・リオで上陸した。日本を出発してからほぼ1年後の1614年10月半ばの事だった。

この後、セビリアやローマに向けて旅立ち、大歓迎を受けるのだが、日本ではキリスト教が禁止されてることが知られていたので、国交樹立や通商協定締結の望みは叶わず、一方で支倉も成果もなく帰国するわけにもいかず、吉報が届くのを待ちながら、欧州各地や帰途でのフィリピンなどでの滞在が続き、帰るのに7年もかかってしまう。

(この間の要約は省略)

ローマからスペインのコリアデルリオに1616年の5月に戻って来た日本人26名中、1名は途中で使節の一行から外され餓死(!、家康のスパイであったとか)、4人が現地に居残る事を決めた。居残る決心をした理由は、キリシタンであったこと、往路での船旅の困難さに怯えたことなどがあったらしい。残り21名中、13名が先発隊として帰国の船に乗り、8名が残った。所が実際に帰ったのは10名で、帰国者が3名減っていた。その3名が亡くなったのか、逃亡したのかは不明。よって、この時点で最大、支倉を含めて15名が残っていたことになる(この本だと14名になっているが、それだと計算が合わないような気が)。

滞在延長はソテロが怪我をしたためであったが、支倉はそこに更に1年間留まる。翌年1617年7月、支倉たちはメキシコに向けて6名で旅立つ。よって、最大9名(本書だと8名)が居残る事になる。その残ったものたちは、コリアデルリオの周辺に住み着いたらしい。またその中には仙台藩士はいなかったという。下層のもの達だけで、苗字はなかったらしい(但し、瀧野嘉兵衛という護衛隊長をやっていた幕府派遣らしい男も残ったが、ここからかなり離れた場所に住んだ。また裁判沙汰を起こしてあまり幸せな生涯は送らなかった模様.。本書にある残留人数は瀧野を省いているのだろう)。

メキシコに着いた後、1618年4月フィリピンに向けて出港、6月に到着後も、スペイン国王の書状を待って、2年間滞在、1620年9月、日本に帰国した。

ところが日本は鎖国しており、宣教師が殺されたりしていtて(4年後にソテロも火焙りの刑)、支倉自身洗礼を受けていたため、伊達政宗は表に出さぬよう蟄居を命ずるしかなく、支倉は歴史の闇に消えてしまう(その存在が再確認されるのは、なんと明治初めの岩倉具視などの遣欧使節が欧州滞在時)。帰国2年後に死去。また帰国後、子供にも洗礼を受けさせたので、政宗死後、長男などが処刑される結果になった。酷い結果ではある。


ただ、ここでの問題は、ハポン姓についてで、そのコリアデルリオの現在での状況になる。
そこは、
1.水田が広がっていて、稲作が行われており、その稲作の起源については不明だという。
2.それらの水田は、日本のように細い畦道で仕切られている。
3.支倉達が帰国したあとの数十年後に、ハポンを苗字とする人たちが現れた。
4.それらハポン姓の人たち600名余が、コリアデルリオの周辺に住んでいる。
  (スペイン全土では800名ほどいる。ちなみにスペインでは苗字を父方、母方両方から取る。
   この数値は、どちらかがハポン姓の人。両方をハポンとする人も10名いるらしい)
5.彼らの職業は、稲作が中心。
6.ハポンには、日本という以外の意味はない。
7.ハポン姓の人は、先祖がサムライであると言い伝えられてきたという。
8.スペインでは、本来の性以外に出身国名を性とする場合がある。画家のグレコ(ギリシャ出身)など。
  また、この地に居残った人たちはサムライ階級ではなく、元々、姓は持ってなかった模様。
9.現在のハポン姓の人たちは比較的高学歴らしい。
10.ハポン姓の人は高確率で、幼児の頃、蒙古斑が出る。また他のスペイン人には出ない。
11.ハポン姓の人の先祖は5家族に集約されるらしい。それは居残った日本人の数に整合している。
12.ハポン姓の人は、朝が早く、6時には働き出すという。他のスペイン人より2時間早いらしい。

また傍証として、アルゼンチンに残っている記録で、日本人奴隷として、フランシスコ・ハポンという名前が記録されてるという。

[要約終わり]

テレビ番組より




1分30秒辺りに出てくるおじさんは、日本人風(笑)

[以下私見]

全てが状況証拠なので、確定は出来ない模様。ただ、瀧野と餓死した通訳(モンターニョ、日本人)が居残ったのはスペイン側の資料で確定らしい。後者のスペインでの名前は、フランシスコ・マルティネス・ハポン。

何か、武具などの遺品とか、書き付けなどが出てくれば良いのだろうが、元々下層民だったので、刀などは持っていなかったろうし、文字が書けたかどうかも分からない。江戸初期だと寺子屋も発達していないし無理かもしれない。また上記二人以外に、日本人が残ってコレアデルリオ周辺に住んだという確かな資料もないらしい。ただ、その可能性は相当に高いだろう。

個人的に知りたいと思ったのは、現在の米の調理法。何か炊き方とか、おかずの作り方に日本風のものはないのだろうか。味噌汁風のとか。食生活以外の習慣でもいいが。まあ、日本人の現在の食生活その他についても、江戸初期とはかけ離れてはいるだろうが。

外国に残るという決断をした人の気持ちは、今となっては推し量るのも難しいが、当時国内ではキリシタン弾圧が酷かった事、二つの大洋を渡るという事は当時の航海としては大変な難行であったこと、サムライ階級でない人にとっては将来の生活に期待が持てなかった事など、状況の違いがあるという事なのだろう。

以上

(6/15)
皇太子様が、コレアデルリオをご訪問のニュース

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