追憶、冬の星座、星の界ー文部省唱歌

文部省唱歌には、非常にロマンチックな、子供にはあまり合わなそうな歌があった。誰が選んだのかしらないが、「追憶」とか「冬の星座」、「星の界(よ)」など。面白い選曲だと思う。ただ、困るのは、歌詞の雰囲気もメロディーも似てるという事(笑)。時々混乱する。しかもそれぞれどの曲も原曲が全然違う歌詞だったりするのでよく覚えられない。整理してみただ、却ってこんがらがった。

「追憶」

1.星影やさしく またたくみ空 
 仰ぎてさまよい 木陰をゆけば 
 葉うらのそよぎは 思い出誘いて 
 すみ行く心に しのばるる昔 
 ああなつかし その日

2.さざなみかそけく ささやく岸辺 
 すず風うれしく さまよい行けば 
 くだくる月影 思い出誘いて 
 すみ行く心に しのばるる昔
 ああなつかし その日


「葉うらのそよぎは 思い出誘いて」や「くだくる月影 思い出誘いて」の辺りはとてもいい。後者のは、水に映る月の事らしい。

元々は、「月みれば」というタイトルで歌詞も違っていたらしい。→ サイト
月みれば (大和田建樹 作詞 外国曲)

一 霞にしづめる月かげみれば
   うきよをはなれて心は空に
  海原しづかに波もなき夜を
   松原ねむりて風もなき夜半を
    ああめでてやそらに
二 布ひく雲間にかかれるみれば
   この世のにごりも忘れて空に
  萩ちる野末にしかのなく夜を
   花咲く芦辺にかりのくる夜半を
    ああめでてやそらに


メロディーは元々はスペイン民謡だと伝えられているが、はっきりはしないらしい。私は非常に好きなメロディーだった。
で、これには、元歌の賛美歌があって、それは「Flee as a bird」というタイトルだったとか。

なんだか、深刻な内容の歌詞みたいだけど(笑)。笑っちゃいけないか。
で、この歌詞は、詩篇11章を元にしてるらしい。

わたしは主に寄り頼む。なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか、「鳥のように山にのがれよ。
見よ、悪しき者は、暗やみで、心の直き者を射ようと弓を張り、弦に矢をつがえている。
基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と。
主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。
主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、そのみ心は乱暴を好む者を憎まれる。
主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。
主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。


なんだか色々検索してると、勉強になりすぎて、頭が混乱する。
こういった聖書や賛美歌の文句を見て思うのは、なんとこの世は恐怖と悲しみに満ちているのだろうという事だ。少なくとも、キリスト教徒、ユダヤ教徒はそう感じていたのだろう。あるいは旧約聖書が作られた時代の紀元前のイスラエル王国などのユダヤ人は。そういう世界だったのだ。日本では必ずしもそうではなかったが。日本でキリスト教があまり広まらなかったのはそのせいか。



冬の星座

【作詞】堀内敬三
【作曲】ヘイス

1.木枯しとだえて さゆる空より
  地上に降りしく 奇(くす)しき光よ
  ものみないこえる しじまの中に
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

2.ほのぼの明かりて 流るる銀河
  オリオン舞い立ち スバルはさざめく
  無窮をゆびさす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる


まさに「奇しき光」には違いない。光があって宇宙は始まった。

元は「愛しのモーリー」というアメリカの曲だったらしい。カントリーか。えらく、雰囲気が変わったものだ(笑)。




星の界(よ)

(一)月なきみ空に、  きらめく光、
   嗚呼その星影、  希望のすがた。
   人智は果(はて)なし、  無窮のをちに、
   いざ其星の界(よ)、  きはめも行かん。
(二)雲なきみ空に、  横たふ光、
   あゝ洋々たる、  銀河の流れ。
   仰ぎて眺むる、  萬里のあなた、
   いざ棹させよや、  無窮の船に。


しかも、これにも賛美歌バージョンがあるとか

段々と混乱してくる(笑)。
まあ、このメロディーは確かに賛美歌風なんだが、「追憶」は明らかに違う。スペイン人も知らないらしいし、誰かが作ったメロディか。



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水師営の会見-文部省唱歌

これも戦後は教えられていない。ただかなり有名な歌だとは思う。同じ日露戦争を歌った橘中佐の歌よりは知られているか。
自分としてはそれほど好きなものではない。
ただ、たまたま聞いたボニー・ジャックスの歌唱が素晴らしかったのと、橘中佐の歌のサンプルが、ダーク・ダックスだったので、ちょうどバランスが取れるかと思って(笑)、取り上げた。


上手い人が歌うとなんだか泣けてくる。レガートが素晴らしい。
歌詞と楽譜はこちらのサイトに

水師営の会見 (佐々木信綱 作詞 岡野貞一 作曲)
一、旅順開城約成りて、
   敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の
     所はいづこ、水師営(すゐしえい)。
二、庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木、
   弾丸(だんぐわん)あともいちじるく
    くづれ残れる民屋(みんをく)に
     いまぞ相見る、二将軍。
三、乃木大将は、おごそかに、
   御めぐみ深き大君の
    大みことのりつたふれば、
     彼かしこみて謝(しや)しまつる。
四、昨日の敵は今日の友、
   語る言葉もうちとけて、
    我はたたへつ、彼の防備。
     彼は称(たた)へつ、我が武勇。
五、かたち正して言ひ出でぬ、
   『此の方面の戦闘に
    二子を失ひ給ひつる
     閣下の心如何にぞ。』と。
六、『二人の我が子それぞれに
   死所を得たるを喜べり。
    これぞ武門の面目。』と、
     大将答 力あり。
七、両将昼食(ひるげ)共にして、
   なほも尽きせぬ物語。
    『我に愛する良馬あり。
     今日の記念に献ずべし。』
八、『厚意謝するに余りあり。
   軍のおきてにしたがひて
    他日我が手に受領せば、
     ながくいたはり養はん。』
九、『さらば』と握手ねんごろに、
   別れて行くや右左。
    砲音(つつおと)絶えし砲台に
     ひらめき立てり、日の御旗。

当時のフィルム入りのもある。


この戦いについてはいろんな本や評論が出てることでもあり、特に言うことはない。乃木大将については、愚将だとか名将だとか、いろんな評価があるようだ。ただ、砲撃によって勝敗が決したわけだが、当時は砲術や大砲の技術の発達しつつあった時代であり、第一次大戦から第二次大戦で最盛期に達する。後知恵での評価は避けるべきだと思う。何しろ、第二次大戦で世界で最も空母の使い方が先進的であった日本が、欠点だけをあげつらわれて世界の大勢に遅れていたとか、わけの分からない評価が定着してる情況さえある。戦争に対しては偏った評価がなされがちだ。

当代の人たちは手探りで新式の技術を使っていたのだ。例えば、60年代には戦闘機にはミサイルだけで十分で機関銃は不要と見なされいたのが、ベトナム戦争でやはり必要と再認識されたケースなどがある。何が主流になるのかその時代では必ずしも予測できないし、旧来のものが慣れていて使い易いといったこともある。パソコンのソフトだってバージョンアップされても元のままでいいやなんてこともある(笑)。ポーランドなんか、第二次大戦開始時には騎兵を使っていた。まあそれが良いというわけでないが、逆に新しいものが良いとは限らないのは、共産主義国家の無惨さを見てもわかる通り。兵器の転換は慣れや資金の問題もあるから、なかなか難しいのだろう。とりわけ20世紀は、技術の変化発展が以前とは比べ物にならないほどに急激な時代である。後から顧みての評価は慎重にしないといけない。

乃木将軍の漢詩、「凱旋」

皇師百萬強虜を征す
野戦攻城屍山を作(な)す
愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん
凱歌今日幾人か還る

これは勝ち戦ではあるが、あの項羽の最後の描写を思わせる

是に於いて項王乃ち東して烏江を渡らんと欲す。
烏江の亭長、船を・(ギ)して待つ。
項王に謂ひて曰はく、
「江東小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。
願はくは大王急ぎ渡れ。
今独り臣のみ船有り。
漢軍至るも以て渡る無からん。」と。
項王笑ひて曰はく、
「天の我を亡ぼす。
我何ぞ渡ることを為さん。
且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。
今一人の還るもの無し。
縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてか之に見えん。
縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。


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橘中佐-文部省唱歌

これも当然戦後は教科書から外されている。曽我兄弟の歌同様、講談社文庫の「日本の唱歌」で知った。
また、やはり動画サイトには見つからない。同名の軍歌はあるのだが、唱歌の方はない。

こちらのサイトに、ダークダックスの演奏で載っている。ただし、アクセスするだけでダウンロードされるので注意。演奏は素晴らしく、聞く価値は十分すぎるほどあるが。
また、こちらのサイトには楽譜と歌詞がある。

その歌詞

 橘中佐 (岡野貞一 作曲)

一、かばねは積りて山を築(つ)き、
  血汐は流れて川をなす、
    修羅の巷か、向陽寺(しやおんずい)。
    雲間をもるる月青し。
二、「みかたは大方うたれたり、
  暫く此処を。」と諫むれど、
    「恥を思へや、つはものよ。
    死すべき時は今なるぞ。
三、御国の為なり、陸軍の
  名誉の為ぞ。」と諭したる
    ことば半ばに散りはてし
    花橘ぞかぐはしき。


生々しい歌詞に綺麗なメロティーが付けられ、それを小学校4年生に歌わせていたというのも、面白いというのか不思議な気がする。日露戦争で最初の日露の陸軍主力の戦いとなった遼陽会戦での橘中佐の戦いを描いたもの。日露戦争は1904年2月に始まり、日本は遼東半島や朝鮮半島から陸軍を上陸させて、満州南部の交通の要衝、遼陽に東方と南方から迫った。日本軍13万に対し、ロシア軍は16万の軍勢で遼陽を守ろうとして戦いは起き、8月末から9月初めまで続いた。旅順攻撃に割かれた乃木大将の第3軍以外の部隊が参加している。

橘中佐(当時は少佐)は、日本軍左翼の第二軍第三師団歩兵第34連隊第一大隊長として参加した。それより前は東宮付きの武官として後の大正天皇の近くに仕えていたが、日露戦争が始まると第二軍付き将官として出征し、自ら前線での戦いを希望して大隊長となった。首山堡の戦いがあった8月31日は、大正天皇の誕生日であった。

遼陽南方前面には、首山~148高地~北大山と続く高地があって、遼陽防衛の最終ラインとなっていた。そこを占領すれば、遼陽が眼下に見られるという要地。グーグル・アースだとこの辺りか。右上隅が遼陽市、中央やや左が首山、その下辺りが148高地、向陽寺地名表示の上が北大山か。

31日未明、南方の第四軍、西南方の第二軍はこの高地に一斉に攻撃を開始したが、泥濘などに足を取られて進めず、橘少佐の部隊だけが、148高地に取り付いた。しかし、ロシア側の高地からの砲撃で甚大な被害を受け、少佐自身も致命傷を受ける。児島譲の「日露戦争」では、次のように記述している。

>[午前五時20分] 大隊長橘少佐は、「情況益々非ナリ」と判断して、突撃を下令して敵塁にむかって斜面をかけのぼった。飛弾が軍刀の鍔をくだき右腕を貫通したが、少佐は刀を左手にもちかえ、胸墻を躍りこえて敵壕に突入した。第四中隊、さらには第一、第二、第三中隊からも躍起する将兵がつづき、少佐は、その勢いを活用して、第四中隊長中村昌中尉指揮の約50人に、敵の第一塁を奪取させた。
・・・
>[午前五時45分] 橘少佐は、戦況を打開すべく、約20人をひきいて頂上をめざしたが、死傷者を斜面に残して第一塁に後退せざるをえなかった。
・・・
>橘少佐らがたてこもる第一塁には銃砲弾がふりそそいだ。
「伏屍累々山を被い、鮮血漾漾壕に満つ」
とは、軍歌「橘少佐」の歌詞であるが、この表現に誇張はなく、橘少佐は、突進のさいの右腕負傷のほかに腹部、胸部、大腿部に被弾した。
・・・
>橘少佐は、流血で「血達磨ノ如キ姿」で塁内に立ち、敵を撃攘せよ、現位置を固守せよ、と号令していたが、至近に炸裂した砲弾の破片で腰部をえぐられ、倒れた。
大隊書記内田精一軍曹は、・・・少佐を背負い下山した。
その途中、一弾が少佐の背から軍曹の胸部を経て左腕を貫通し、軍曹は昏倒した。
・・・
>この間、橘少佐は、しきりに戦況を訊ねていたが、午後六時30分、次のように遺言して絶命した。
「本31日ハ、皇太子殿下御誕生ノ佳辰ニ相当ス。斯佳辰ニ於テ予ノ戦死スルハ名誉ニシテ、又最モ満足スル所ナリ」


確かに、軍神と言われるに相応しい戦いぶりである。しかし、この攻勢は失敗し、戦線は膠着状態に陥り激戦はその日一日続いた。橘少佐の属していた第34連隊は、連隊長も死亡し、崩壊状態となるほどの打撃を受けている。歌詞の中にある、向陽寺(しやおんずい)は、北大山直前にある激戦地。
所がその間、日本側右翼にあった第一軍が、渡河してロシア側の左翼側面に回ったため、退路が絶たれる事を危惧したロシアの将軍クロパトキンは撤退を決め、9月1日未明、高地は日本軍が占領し日本側の勝利に終わった。

遼陽の戦いについてはこちらのサイトに図示されている。


しかし、歌詞の悲惨さに対して、ダーク・ダックスの歌い方の優しい事(笑)。全く軍歌風ではない。もう1つの「橘中佐」は完全な軍歌だけど、これは悲愴で重々しい。この歌は昔のニュース映画で、葬送行進曲のように使われてたのを聞いた気がするんだが、探しても見つからない。

最近ではこういったコーラスグループはあまり表に出る事がなくなってる。つまらないアイドルとかばかりが出ている印象。ああ、BABYMETALは別(笑)。昔はダーク・ダックスやボニー・ジャックス、あるいはアメリカのブラザーズ・フォーなんていうグループが活躍して、ヒット曲などもあったものだが。いつ頃からかなんだか音楽業界が歪んで来ている印象。

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曽我兄弟-文部省唱歌

これは学校では習っていない。戦後は削られたようだ。鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ちを描いたもの。
私は、講談社文庫から出ている、「日本の唱歌」という本で知って気にいった。
ただ、これはどこの動画サイトを見ても無い。あってもなぜか消されている。同名の別の歌はあるのだが、唱歌の方のは見つからない。
こちらのサイトでメロディーが聞ける。ちょっとスピードが速いが。途中高く盛り上がるところがなかなか良い。
楽譜と歌詞は、こちらのサイトで。こちらには当時の唱歌をまとめてある。

一、富士の裾野の  夜はふけて、
  うたげのどよみ 静まりぬ。
  屋形屋形の   灯は消えて、
  あやめも分かぬ さつきやみ。
二、「来れ、時致(ときむね)、今宵こそ、
  十八年の    うらみをば。」
  「いでや兄上、 今宵こそ、
  ただ一撃に   敵(かたき)をば。」
三、共に松明(たいまつ) ふりかざし、
  目ざす屋形に  うち入れば、
  かたき工藤は  酔(ゑ)ひ臥して、
  前後も知らぬ  高 鼾(いびき)。
四、「起きよ、祐経(すけつね)、父の仇(あだ)、
  十郎五郎、   見参。」と、
  枕を蹴つて   おどろかし、
  起きんとするを はたと斬る。
五、仇は報いぬ、  今はとて、
  「出合へ出合へ」と 呼ばはれば、
  折しも小雨   降りいでて、
  空にも名のる  ほととぎす。


曽我兄弟の仇討ちというのは、日本三大仇討ちの一つと言われている。私の親の代はよく知っていたようだ。しかし、私は子供の頃は良くわからず、大化の改新の蘇我一族の事かなと思ったりしてた(笑)。今の人たちはほとんど知らないのではないか。

頼朝の政権が安定した1193年5月に行われた富士の裾野での巻き狩の際、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、父の仇で幕府の重臣の工藤祐経を討ったという事件である。兄弟が幼い頃、所領争いで工藤祐経が兄弟の父の河津祐泰を殺した。母親はその後曽我家に再婚で入った為に、兄弟は曽我を名乗った。兄弟は工藤を18年間も付けねらい、遂に本懐を遂げるという話である。ただ、これには政治的な背景があるらしく、ただの仇討ちではないようだ。こちらのサイトに、いくつかの説がまとめてある。

問題になるのは、この仇討ちの際、多数の御家人が死んでいること、弟の時致が工藤祐経を殺したあと、頼朝の宿所に突進して頼朝をも殺そうとした事、事件後、頼朝の弟の範頼が幽閉され死んだ事、有力者の大庭景義などが失脚したことなど、一連の奇妙な事件が起きたことがある。実は曽我兄弟は、北条家に仕えていたらしい。北条家が頼朝を殺そうとした可能性はあるだろう。何しろ、この当時の武士なんて親子兄弟で殺しあってる。鎌倉幕府成立後も、数々の衝突が起こり、有力御家人が多数死んでいるし、頼朝自身も奇妙な死を遂げている。

最大の受益者が犯人だ、という論理を適用すれば、裏にいたのは北条家という事になるだろう。しかし、これの究明が難しくなる理由は、その北条家が、『吾妻鏡』を編纂し、これだけがこの事件を記述しているという事。これではどうしようもない。この難問から抜け出るためには、北条家の利益になる記述を全て捨ててかからないといけない。例えば、頼朝が、その気持ちに免じて時致を許そうとしたという記述とか。おそらくウソだろう。この事件を純粋な仇討ちにするための脚色だろう。兄弟の行動は、政権の転覆を狙ったものなのだろうと思う。しかし、もはや、そんな推測など、根拠となる資料などないわけだから、無意味に近い。背景にあるのは、源氏の武士団が棟梁の家系を含めて、お互い騒乱しあっていたということ、それに対して、北条家は一致団結して、幕府を維持していったという事である。それは良かったというしかないだろう。元寇にも適切に対処した。源氏のいい加減な血筋だったらどうなってたか分からない。源氏にも頼朝とか義家とか傑出した人物は出るが、どうも殺し合いばかりやってるし、源氏の流れの足利幕府を見てもなんだか頼りない。ただ、結果的には、北条家もそういった足利家、新田家に滅ぼされるのだが。



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朧月夜

冬景色と双璧をなす名曲かな


1.菜の花畠に、入日薄れ、
見わたす山の端(は)、霞ふかし。
春風そよふく、空を見れば、
夕月かかりて、にほひ淡し。

2.里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路をたどる人も、
蛙(かはづ)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める 朧月夜。


まあ、誰もが良いというし、そうなんだろう(笑)。自分も時折口をついて出てくる曲だ。
しかし、ちょっと難しかったなあ、小学生には。自分の記憶では小4で習ったような気がするのだが、資料など見ると小6の教科書に載ってたらしい。
いつも、「山の端」を「やまのわ」と歌っていて注意されてた(笑)。わざとやってたりして。やまのは、って何、里わって何、にほひ淡しって何、とよく意味が分からなかった。名曲であるのは事実だろう。しかし、あまりリアリティを感じなかった曲ではある。

決して否定するわけではない(笑)。良い曲だ。
これにも田舎の美化は特に感じない。しかし、子供向けではなかったかな。大人を意識して書かれた歌詞だろう。かなり作られた歌詞だと思う。

また歌詞の狙いがよく分からない面がある。
「にほひ淡し」とか「さながら霞める 朧月夜」とか言いたい事はわかる。しかし、現実の田舎の生活でそんな感じを抱いたことはないなあ。夜になれば真っ暗で子供は必死に家に戻ろうとする。暗闇は怖かった。朧月を眺める余裕などない。というか、月が朧かどうかなんて気にしたこともなかった。地域性にもよるのだろうか。九州のガサツな人間には今ひとつ理解できない世界ではあった。

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冬景色

あまり音楽が好きじゃなかった自分が、音楽の時間で最初に好きになった曲。小学校5年だったか。



1.さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家。

2.烏(からす)啼(な)きて木に高く、
人は畑(はた)に麦を踏む。
げに小春日ののどけしや。
かへり咲(ざき)の花も見ゆ。

3.嵐吹きて雲は落ち、
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
若(も)し灯火(ともしび)の漏れ来(こ)ずば、
それと分かじ、野辺(のべ)の里。


歌詞も曲もいい。
この歌詞の何がいいかというと、田舎をあまりに美化していない事。昔の唱歌には田舎の生活の美化があった。私は実際にド田舎に住んでいたので(笑)、そういった美化は気に障ったものだった。田舎の生活というのは、侘しいものだったのだ。ただ、それはこの曲が作られた明治大正と昭和の戦後との違いのせいかもしれないが。日本が高度成長時代に突入して、都会が栄える一方では、田舎は昔ながらの生活をしていた。サラリーマンの給与は増えても、米の収穫量や魚の水揚げが増えるわけではない。ただ、華やかになっていく都会を遠くから見ているという状況だった。

明治大正の田舎と都会の違いが実際どうだったのかは知らない。しかし、都会人が田園生活を美化し、憧憬をこめて描くというのは、近代西欧の文学作品でもあったことだし、唱歌に出てくる美化も似たようなものだったのではないかと。
「我は海の子」にある、「煙(けむり)たなびくとまやこそ我がなつかしき住家(すみか)なれ。」とか典型的。実際に貧しい家に住んでる人は、こんな暮らしから抜け出て都会に出たいと思ってただろう。

「おお牧場は緑」の中の「よくしげったものだ」。私はこのちょっとした言葉にも腹を立てていた(笑)。都会人にとっては草が繁茂するのは好ましいイメージなんだろう。しかし、田舎では雑草とか邪魔なだけである。庭も道も畑も草が生えまくるのだ(笑)。蛇やムカデも這い回ってたりして。

しかし、この「冬景色」は、田舎の生活をそのままに歌っていながら、それでいて詩になってるという所が良かった。特に2番なんかそのままだった。
また、3番の、

若し灯火の漏れ来ずば、
それと分かじ、野辺の里。


という所。ほんとにそんな村だった(笑)。夜に旅人が通りがかったら、気付かずに通り過ぎたかもしれないというような村だった。
ただ、この歌詞の中で一つだけ問題がある。それは一番の、

ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家。


の部分。漁村の生活はまだ暗いうちから始まる。僕ら子供が起きた時にはもう漁が終っていて、漁師は帰ってきていた。明るくなったのに、いまだ覚めず、はありえない。もし漁師を業としているならば。

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